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長くつ下のピッピの映画ってあらすじは原作小説と一緒なの?
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1970年制作の映画「長くつ下のピッピ」は、アストリッド・リンドグレーンの小説「長くつ下のピッピ」をそのまま映像化した様な、破茶滅茶に楽しい作品だ。
その後も続編の映画シリーズやドラマシリーズが制作をされているが、やはりこのリンドグレーンの故郷でもあるスウェーデンとドイツとの共同製作映画こそ名作中の名作だと感じる。
映画の至る所に、その時代のインテリアや色彩が観るものを釘ずけにする。
小説として刊行されている長くつ下のピッピシリーズ3冊を読んだ事がある人であればおおよその内容は把握しているものの、映画化された作品は観たことがない人も多いと言われている。
逆に小説は読んだことがないが、映画を何度も観たことがあるという人も多いと言われている。
当時はテレビで何度も放送をされていたため、記憶に残っている人も多いというが、最近はBSやWOWOWでも放送をされることが少なく、観る機会がない。
私の子供の頃、学校の体育館で映画会が開かれた時の上映作品がまさにこのピッピの映画だった。
大きなスクリーンでピッピのドタバタ劇を観るのはとても楽しかった。
ただあれ以来、ピッピの映画を二度と観るタイミングが無かったのもなんだかとても悲しい。
子供向けに制作をされた名作映画が地上波で放送をされることは、今の時代皆無だと思う。
例えば、ディズニーが制作をした1960年代の映画など宝の山だと思う。
「海底二万マイル」や「宝島」、「モモ」など辛うじてソフト化をされているものもあれば、ケストナーの傑作「エミールと探偵たち(1959年版)」や「二人のロッテ(1995年版)」の様に完全にVHSのビデオテープや初期のDVDパッケージ版で発売をされたきり、廃盤になっている作品も多い。
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つい最近まで、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の映画版「ネバーエンディングストーリー」にしても、VHSで出たきり、長らくDVD化をされず廃盤状態だった。
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そんな数ある名作小説の映画化の中で、やはり「長くつ下のピッピ」は断然楽しい。
今回は、長くつ下のピッピの映画(1960年版)と原作小説と絵本のあらすじは一緒なのか?本のエピソードや映画のシーンを参考に内容のネタバレや結末も含めて考察して行きたいと思います。
映画「長くつ下のピッピ」は原作の小説や絵本を忠実に再現していた
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ピッピは小説や絵本のままお転婆で、大人には到底理解ができない眉をしかめる様な事ばかりしていますが、ふと、自分も子供の頃の思考を思い返してみると、ピッピが行動に移すことの全てが夢の様な出来事にも思えたりする。
なぜ子供の頃に感じていた「夢の様な出来事」なのか?
それは大人から「これはやってはいけないよ!」とか「なぜそんなことをするの?」とか。
はたまた「それって何か意味があるの?」とか。
大人にとってみれば無意味なこと、全くもって役に立たないことは、子供の想像力を働かせて「やりたい!」と思いついたアイディアさえも、首を縦に振ることは決してない事が多い。
「汚れるからだめ!」とか「怪我をするから危ない!」とか。
はたまた「女の子なんだから…」とか。
でもピッピは、自分たちが子供の頃に描いていてた様なとてつもなくぶっ飛んだアイディアを現実にしていく。
例えば、キャンディー屋さんでキャンディーを40キロ買ったり、大人相手におちょくったり。
特に弱いものに対し正義感の強いピッピは、いじめっ子に対しても自分よりも体が大きかろうが年上だろうが、しっかりと立ち向かっていく強さがある。
いじめっ子を投げ飛ばし、アニメの世界の様に木のてっぺんまで吹っ飛ばす力を持っている。
そして映画「ホームアローン」の元祖とも言える家に忍び込んだ泥棒を退治するシーンなど、愉快なお話の数々が小説の内容通りに映画化されている。
映画版「長くつ下のピッピ」のあらすじやネタバレから読み解くメッセージ
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絵本や小説の「長くつ下のピッピ」を忠実に再現していると感じる1970年版の映画は、80分前後と時間も短く、子供がとても見易く作られているのも興味深い。
小説の挿絵そのままのピッピが映画の中ではちゃめちゃに駆け巡るのが、大人になってから改めてみると痛快すぎて楽しい。
他の人と違っていいの、それが個性だからということを常に意識をしているピッピにとって、自分が良いと感じる考えや想像力を他の誰かが壊したりすることは決してない。
それはピッピがしっかりと芯が通った女の子だという理由もあるけれど、自分が信じていること、愛情をかけていることに対してはちゃんと物事を見透かす目を持っているからだと感じる。
それが垣間見られるのが、映画を通して大人たちがどうにかしてピッピを言いくるめて、大人の都合通りに物事を進めさせようとするシーンが多々ある。
するとピッピは必ずと言っていいほど、揚げ足をとる様な言葉を素直に投げかける。
大人の嘘を見透かすピッピにとって、本当におかしいことや変なのは言いくるめて思った通りにさせたい大人の方なのではないかと心の中で悟っている気がする。
一見、家の中で水の桶をひっくり返したり、ケーキを投げて笑ったりしてはちゃめちゃに暴れている様にも思えるが、その行動は周りの子供たちをみんな幸せにする。
型破りだとか独創的と言えるかもしれないが、私が感じたのは、普通なら心の中で留めておく感情をピッピはそのまま素直に行動や言動で表しているだけなんだとも思う。
それが子供だからこそ許されるのか?
もし大人がピッピの様に思いついたアイディアを社会性や世間体を考えずに行動にしたと考えたら、非常識と一言で言われて罵られると思う。
ただ子供にはそう言ったルールに対して、超越をする何かがあると思う。
子供だからそう言った行動に出るんだよ。
これで解決したりすることだって沢山ある。
ピッピは、「子供だから」という大人の都合の良い言い訳を逆手に取って、大人がたじろぐ発言を連発する。
社会の枠にはめ込もうとする大人たちに子供たちの創造性や個性を奪ってはいけないとしみじみ感じる映画であった。
映画の結末は名シーン!ネタバレ公開
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映画の終盤であるラストは感動的。
ピッピの行方不明になったパパが見つかり、一緒に南の島へ行かなければならなくなった時に、パパと一緒に痛い気持ちは強いけれども、友達のトミーやアニカを悲しませたりするのが可哀想だと悟り、一人で残ることを決意する。
「一人でも寂しくない」、「大人になった」。
そう言ったセリフがピッピの口から次々と出てくるシーンを観て、大事な友達を思いやり、自分と向き合って考え抜いた選択を貫く行動力は、大人が観ても素晴らしいと感じるシーンであった。
他の人と違うのは個性だと言い切るピッピの魅力は計り知れない。
自分が良いと感じた感情を大切にすることが出来るのも、羨ましい限りだ。
幼い子供達にとって、この映画はどう映るのだろうか?
ただただ面白い映画に見えて、実は奥が深く、強く勇ましく生きるピッピの姿に、知らぬ間に引き込まれている様な気がする。
きっとこの映画を観たほとんどの人たちが、ピッピの破茶滅茶さよりも最後に残るのは、思いやりの強さだと思う。
最初から最後まで、ピッピは自分の行動を自分で決めていた。
責任感が強いとか決断力があると感じる要素の源は、きっとその思いやりと自尊心の高さからくるものだと感じる。
自分の才能を開花させるのは簡単なことではないと思う。
ただ映画の中で元気に走り回るピッピを見ていると、ふと、忘れていた大切なことを思い出させてくれる。
「才能」の文字通り、その「才」、すなわち年齢に合った、その年齢でしか出てこないアイディアや想像力を、どれだけ大人がそのままの形で受け止め、理解をしてあげるかで、その子供の未来は開けるものなのかどうかが決まってくる様な気がする。
ピッピのパパは、ピッピの言葉や行動、そしてアイデアをそのまま受け止めることが出来る。
ピッピが「箱の中に隠れて脅かそう!」と提案すると、パパは無条件に箱の中に隠れるし、パパの顔にケーキが飛んでききて、クリームまみれになるシーンがあるが、ピッピのパパは大笑いをして喜んでいたりする。
きっと本当の正解はピッピのパパなのかもしれない。